児童1人と教職員7人
津島小は震災前、東京電力福島第一原発から北西約30キロの山あいの集落、浪江町の津島地区にありました。地区には約1500人が暮らし、小学校には58人の児童が通っていましたが、原発事故により全ての町民が避難することになりました。 津島小は震災から3年後、町役場が移転した隣の二本松市で旧校舎を借りて、再開しました。避難する町内の別の学校や、避難先の学校になじめない子どもも受け入れ、当初は20人ほどが通っていましたが、昨年4月から在校生は6年生の須藤嘉人君(12)、1人となりました。 津島小のように原発事故の影響で避難先で授業を続ける学校には通常よりも多くの教職員が配属されます。最後の年、津島小では先生や職員7人が働くことになりました。 木村裕之校長(55)は昨年4月の始業式で、「チーム嘉人」の結成を宣言しました。学校に同じ世代の子どもはいません。先生や職員が学びや遊びに一緒になって取り組むと伝え、「『チーム嘉人』として先生たちも頑張ります。嘉人君も一緒に頑張ろう」と語り掛けました。
「無理に背負わなくていい」
学校がある浪江町の中心部は2017年春に避難指示が解除されました。しかし、津島小がある津島地区は帰還困難区域に指定され、今も人が住むことが出来ません。 武内弘子先生(56)は町の暮らしや文化を学ぶ「ふるさとなみえ科」を担当しました。かつての在校生がカルタにまとめた町の名所などを実際に訪れてみる町探検や、カボチャまんじゅうなどの郷土料理づくり体験の授業には、講師としてたびたび協力してくれる町民を呼びました。 嘉人君は2歳で被災し、避難先の福島市の自宅から仮校舎に通っています。津島小の本校舎と、嘉人君が6年間過ごした仮校舎は約20キロも離れています。武内先生は「浪江や津島をふるさとと実感できないことも仕方無い。でも、嘉人君が町やゆかりある人たちとのつながりを強めてくれたことがうれしかった」と話します。 武内先生自身も避難者で、事故当時、自宅は原発がある大熊町にありました。栃木県出身で、結婚後に町に来て、3人の子どもを育てました。 ふるさとでの生活を覚えていない子どもが増え、一時は悩んだり、戸惑ったりしましたが、「ふるさとのため、と無理に背負わなくていい。将来やりたいことを見つけ、それが結果的に浪江や津島に役立つなら、一番」と思うようになりました。 昼休みに大活躍だったのは、学校の経理などを担当する紺野直之さん(30)でした。 毎日のように、嘉人君と一緒に体育館でバレーボールをして遊びました。「最初は嘉人君に活躍してもらおうと思ったけど、嘉人君が上達すると、自分もつい本気になった。スポーツをすると、嘉人君の笑顔が増えることもうれしかった」と振り返ります。
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