デコトラ(デコレーション・トラック)のアクション映画「トラック野郎」が公開されてから半世紀近く。パラリンピックの閉会式やグッチのCMにもデコトラが登場し、海外からも注目を集め、国内でも再び盛り上がりを見せている。
かつては「怖い」「危なそう」などと、デコトラを敬遠する人も多かったが、そんな空気を地道に変えていき、デコトラを“日本の文化”にまで押し上げた立役者の一人が、田島順市氏(74歳)だ。田島氏は日本最大のデコトラ組織「全国哥麿会」の会長を長年務める、デコトラ界では知らない人のいないカリスマだ。
そんな田島氏に、デコトラに出会うまでの孤独な少年時代から、海上自衛隊を経て、三島由紀夫の警備を務めた青春時代など、波乱万丈のトラック野郎人生について聞いた。(全3回の3回目/#2から続く)
子供時代の“空白の期間”
――#2では「哥麿会」の運営や被災地ボランティアの活動を語っていただいたのですが、今回は田島さんの幼少期からお聞きしたいと思います。1948年に埼玉県児玉町(現:本庄市)でお生まれとのことですが、ちょうど戦後の復興が始まったころですね。
田島 そう。終戦から3年後に生まれたの。当時、児玉町ではいい粘土がとれるから瓦を作っている家が多くて、うちの実家も瓦の窯元だった。だから、家には20人くらい職人がいて、勉強なんかは教えてくれねえけど、彼らが歌う浪曲はよく聞いててよ、小学校に上がる前には、清水次郎長の二十八人衆の名前を全部、覚えたよ。
でも、栄養状況も悪かった頃だから、職人には結核持ちもいてうつっちゃったんだな。小学校に上がってすぐ小児結核になったの。
――当時はなかなか治らない病気ですよね。
田島 そう。入学式は出られたんだけど、その後、1年間ぐらいは入院してた。それまで元気で走り回っていたのに、もうガックリ。週2回、病院に通いながらも、登校できるようになったのは3年生ぐらいから。田舎の小学校だから、みんな、お互いを知ってるわけ。俺一人だけ転校生みたいな感じで、やっぱり子供の時の空白というのはでっかいんだよね。
――それで、学校にはなじめなかった?
田島 病気で体も弱いし小さいし、もう相当ないじめにあったんだね。殴られたり、バカにされたりしても、助けてくれる奴もいない。とにかく孤独でね。不登校になったら問題になって周りの大人も動いたかもしれないけど、元が明るく元気な子供だったから、いじめられても耐える力があったんだろうな。だからかえって、いじめは長く続いてよ。それ以降、なんかこう世の中を斜めに見るようになっちゃったの。
中学では体も良くなって、だいぶ動けるようになった。そしたら今度は、今までいじめられた分、弱い奴をいじめる側になっちゃったんだね。
「こいつは俺が面倒を見るから」
――悔しい思いをしたのに、なぜ自分がいじめる側に?
田島 やられたから、やりかえそうって。それが自分の弱さ。さすがに年下には手は出さなかったけど、人間っていうのは、なかなかテレビで見る正義の味方みたいなのにはなれねえんだよな。高校に入ったら弱い者いじめはしなかったけど、今度は先生に突っかかったり、強い奴と喧嘩して暴れてた。
俺なんかの時代は第一次ベビーブームで、学校でも社会でも競争して勝てなきゃ生き抜けなかった。そういう殺伐とした時代だったんだけど、俺はいろいろやらかして3回くらい停学になってよ。ついに学校を辞めて転校しなきゃならねえ、ってとこまでいったんだけど……。
――転校はしたくなかったんですか?
田島 高校では仲間ができたからね。でも自分のせいだから仕方ないよな。ところがある先生が俺みたいな奴を必死にかばってくれたんだ。その先生はまだ若くて大学卒業したばっかりで、俺らのちょっと上の兄ちゃんのような存在だった。その先生のことを思い出すと、今でも俺は涙が出ちゃうんだけどよ、「こいつは俺が面倒を見るから、何とか卒業させるから」って。
――どこか目をかけてくれたところがあったんでしょうね。
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