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Wednesday, June 16, 2021

FESN森田貴宏の少し長いが聞いてくれ。『僕がスケボーだけやって生きて来れた理由』第一話 - Red Bull

pasipaso.blogspot.com

【第一話】  森田、目標に向けて学校に通う! 編

森田くんは何をやっている人なの?

え? 俺? スケボーだよ。

え?スケボーだけ?

うん、スケボーだけ。

スケボーだけしてて生活出来るの?

うん、俺は運良く生きて来れた。

今迄にどれだけこの応対をして来たことだろう?

細かく話しても大変だから僕はいつもこの感じで流してるけど、今日はこのことについて書こうと思います。なんで僕が今迄、スケボーだけやって生きて来れたか。いや、正確に言えばスケボーを取り巻く文化全てに率先的に携わって生活して来れたか。そしてそこにはどんな想いが働いていたか。今回は少しばかり長くなりますが、少しでも自分がした経験が、皆様にとって役立つことがあればと思い書かせて頂きます。最後までお付き合い頂ければ幸いです。それではよろしくお願い致します。

話は時代を遡ってバブル絶頂期の1989年。

僕は当時13歳。僕がスケボーを始めた年です。いわゆるアメリカの“本格的”なスケボーを始めるに至った最初の理由は当時僕が見た1本のスケボービデオ。アメリカの街並を当時の自分と同じくらいの年齢のスケーター達が楽しそうにスケボーの妙技を使って街を流していく様。今まで見たことのないようなスケーター達の颯爽感と、そこで使われていたBGMも同様に今まで聴いたこともないような躍動する音楽。とにかくそのスケボービデオの内容がカッコ良く、僕は心底感動してスケーターを志したのでした。

それ以降の僕は順調にスケボーの魅力に取り憑かれ、約2年後には初めてコンテストに出場し、その約1年後の16歳で初めてスポンサーが付き、“プロスケーター”という道筋を進み始めたのです。ですが、プロといっても今よりも30年近く前のスケートボードシーン。お金を稼ぐにも中々スケートボードだけで収入を得られるような甘い現実はなく、スケボーの物品支給のみのサポートが当時の僕の現実でした。当時、僕の唯一の活躍の舞台だったコンテストでも自分は大した結果を残すことも出来なかったから、それは当然といえば当然だったと思います。だから当時の僕にとって“プロスケーター”というのは名ばかりで、現実にはその他大勢のスケボー愛好者とさほど変わらなかったのです。

そんな中、僕がそれなりにスケボーライフを謳歌していた高校生活も終盤に差し掛かると、今まで黙っていた父親からも「いつまでそんなことやっているんだ? バカなことやってないで将来の為に大学受験しろ!」と諭される日々が続きました。反論することも当時の僕は出来ず、父親の言われるまま一度は受験の為、予備校に通ったりしてみたものの、実際の授業では全く何をやっているのか理解出来ず、目標もなく毎日が過ぎていったのです。無意味な日々が続いていると思っていた当時の自分。充実とは程遠い生活の中、ある考えが浮かびました。

「どうせこのまま生きていくのなら、何か少しでも自分の好きなことを繋げて生きていきたい」

そこで僕は探しました。何を探したかというと、、、

少しでも自分の好きなことを探すということを。

当時の僕の父親には言えなかった“本音”とはこうでした。それは、、、

「スケボーしながらずっと遊んでいたい」

僕の父親はとても厳しい人なので、そんなことを父親に向かって言おうものなら、、、想像もしたくない状況が目に浮かびました。

しかしながら本音とは本当の僕の声であり、動機は当時よく分からなかったのですが、とりあえずスケボーは楽しいということは分かっていました。ではその楽しいスケボーは何で楽しいのか? ということを当時の僕は何となく分析していったのです。その結果以下のような進路が浮かんできました。

  • スケボーに乗って滑るのが楽しい→体育学校で学ぶ

  • スケボービデオで見るその時々のスケーター達の新しいファッションに自分自身が身を包むのが楽しい→服飾学校で学ぶ

  • スケボービデオで使われているカッコイイ音楽を調べてレコードを収集したり、バンドでコピーしたりするのが楽しい→音楽学校で学ぶ

  • スケボー雑誌とかに露出される新作デッキやプロダクトのデザイン、それらに付随する広告やグラフィックのデザイン等を見るのが楽しい→デザイン学校で学ぶ

とりあえず大きく学問的に分けると以上のような感じになりました。

それで当時の僕が少しでも出来るんじゃないかって思ったのが、“スケボー雑誌とかに露出される新作デッキやプロダクトのデザインや、それらに付随する広告やグラフィックのデザイン等を見るのが楽しい”すなわちデザイン学校で学んでみたいという気持ちになりました。そして意を決して父親に交渉をしたのです。

「今行っている予備校は正直言って何をやっているのかさっぱり分からないし、自分がやりたいことではない気がする。僕はたぶんデザインとかやってみたいんだと思う」と。

それを聞いていた父親は呆れた顔をして「少しは自分について考えたんだな?」と、更なる試練を僕に提示して来ました。

「東京芸大一本で行くなら許してやる」

え~!! 何でそうなるの?

可愛いあなたの子供がやっとのことで自分自身の進路について考え始めたっていうのに、そんなにハードル上げてどうするんですか!? しかもあなたの息子はあなたが思っている程、利発な子供ではありませんよ!! というのが当時の謙虚な僕の本音でした。

とにかく受験勉強とか絶対にやりたくないし、面倒だし、本当はスケボーしながらずっと遊んでいたいし、、、だから出来れば受験のない専門学校くらいがちょうど良い感じで、、、

「受験が無いなんていうのは、明らかに甘い。そんなんじゃ一流のデザイナーや芸術家なんてなれないぞ! だからお前は日本一の東京芸大に入れば良い!」

というハーコーな考えを僕に示した僕の父親。とにかく父は日本一が大好きなのです。

これでは話にならないと僕は交渉を一時中断し、交渉相手を父親から母親に替えました。母親は何というか、まあ父親に比べて、、、甘いというか優しい人なので、こんな落ちこぼれの僕が初めて言い出した自分の進路についてもとても寛容でした。これはいける! と感じた僕は母親からの父親説得プランに鞍替えして、母親との交渉に全力を使ったのです。

結果、母親からの熱心な説得を受けた父親は渋々僕の専門学校行きを了解。ここに晴れてデザイン専門学生の森田貴宏が誕生したのです。

次に続く!(※ 森田貴宏、第二話を張り切って執筆中✍️)

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