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Friday, June 10, 2022

世界だる…って思っても“気働き”で少しでも良いものにしてこ|キリ番踏んだら私のターン|長井短 - 幻冬舎plus

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好きな人が夫になって、三年が経った。

旦那さんにご飯作るの?」とか「……もういいの?」とか、ありとあらゆる鬱陶しい質問を乗り越えた三年。最近はそういう質問も落ち着いてきて、比較的穏やかな日々を送れている。

あーだるかったマジで。

うるさすぎる世界を、ひとまず今日までサバイブできたお祝いに、私はすごくお洒落して記念日のディナーに挑む。まだ着てなかったワンピースを下ろして、普段履かないお気に入りのヒールを履いて。祝福の準備は楽しい。

 

でもそのせいで遅刻してしまいそうになったから、タクシーに乗ることにした。こういう日くらい良いだろうって意気揚々と家を出て、私は思い出すのだ。

世界はまだ全然だるいまま。

去年河口湖に行った時、まじまじと富士山を見たんだけど、こりゃ日本一っすわっていう説得力がすごかった。大らかで優しそう。

運転手さんはタメ口だし、伝票はけして私には渡されない

 

タクシーの運転手さんは終始タメ口で、私が道を説明すると一人でボソボソ何かを言い続けた。そういう人もいるだろう。誰しも癖を持っている。でもなぁ。不思議なもので、ジャージの時は大概運転手さんとの相性がいい。

タクシーを降りて道を歩くと、ジャージで歩いている時には感じない視線を感じる。居心地が悪い。でもこれは、もしかしたら今私が凄くイケてるからなのかもしれなくて、じゃあ誉れ?

お寿司屋さんのコースでは、どう見ても二つ並んだ握りの向かって右が小さい。マグロも、サーモンも、知らない魚も全部、絶対右の方が少し小さい。米も少ない。気遣い?

伝票は迷いなく夫の元へ差し出される。なんかまぁ、そういうのもカッコよく見えるというか、見ることもできる。エスコートみたいなやつ?

今あげたようなことは、別に喜ぼうと思えば喜ぶことができる。優しいなとか、気が利くなと捉える人だって勿論いるだろうし、実際に過去の私もそうだった。

でも、いつからか私は、他人から投げかけられる善意を素直に受け取れなくなってしまったのだ。そういう自分のことを、うまく好きになれない。昔の方が優しかったんじゃないか。寛大だったんじゃないか。楽しい人間だったんじゃないかエトセトラエトセトラ……色んな負の感情が湧く。

できることならポジティブに感じたい。けれど…

だって、私だって好きで不満に思っているわけじゃないのだ。できることなら、全部ポジティブに感じたい。

タクシーの運転手さんがタメ口なのはリラックスできているからで、化粧してスカートを履いていると視線を感じるのは可愛いから。お寿司が小さいのはシンプルにムカ、じゃなくて、コースを最後まで美味しく食べられるようにっていうお店のさりげない気遣い。伝票が男性に差し出されるのも、奢ってもらってラッキー? そうやって感じられるはずだ。感じている人はたくさんいる。

私みたいに、色んなことにケチをつけたり、斜めから世界を見る人は損だと凄く思う。でも、一度思ったことは取り消せなくて、考え方が変わったとしても、歴史は私の思考回路に刻まれる。

特に何か、大きなきっかけがあったわけじゃない。元々私は卑屈で、性格が歪んでいる節があるから、人のことを意地悪な目線で見ることは昔からあった。でもなんか、この気持ちはただの意地悪とは違うのだ。ちょっと歪なコメントをしてやろうとか思っているわけじゃなくて、ただ本当に、立ちすくんでしまう。

そうなった理由はわからないけど、たぶん私は、社会に興味を持ち始めたんだろう。

人に優しくしてもらうことを、ただそのまま、何も考えずに「優しいな」と感じることが、うまくできない。どうして優しくしてくれるんだろう? とか、どうしてこれが、私にとって良いことだと思ったんだろう? って、優しさの動機を考えてしまうのだ。

その思考回路はもしかすると、電車で席を譲られた時に怒るお年寄りと似ているのかもしれない。「立ってられない年寄りに見えたのか」っていう憤りと「女の人だからあんまり食べられないと思われてる」って憤りはきっと似ている。今まで、人の親切に怒るお年寄りに対して私は少し引いていたけど、当事者になってやっとわかった。確かに、怒りたいような、悲しいような、やるせない気持ちになるよね。

だって、まるで記号として社会に存在しているみたいな気分になるから。

「お年寄り=足腰弱い」「女性=少食」「男性=重いもの持てる」私たちはお互いに、相手を記号化する。常識とか経験に基づいて「こういう見た目の人はこれ、この年代の人はそれ」とかって相手を想像する。そして、その想像力をもとにして、人に親切にする。その親切心は善意だと思う。本当に思う。

だけど、その善意を練り上げる過程には一方的な思い込みが存在していて、それによってバグが生じるのだ。

それでも、私たちは何だかんだ人に優しくすること、気遣うことをやめられないだろう。だけどじゃあ、お互いに我慢し続けるのが正解なのか?「そうする気持ちわかるし……堪えよ……」って、一生やってくの? やってけば、この世に波風は立たなくて、今まで通りただ平凡に生きていけるかもしれないけど、そうし続けるのは流石に暇

暇だろ。暇だし、どうせ生きてるならもうちょっと住みやすい世界にしてから後輩にバトンを回したい。じゃあどうしたら良いのか。

教えてくれたのはまたもや「週刊少年ジャンプ」!!!!!

「あかね噺」にでてくる「気働き」をみんなやってみよう

あかね噺」という漫画がある。落語家を目指す女子高生が奮闘する話なんだけど、この漫画の中に「気働き」という言葉が登場するのだ。私の悩みを解消するのは完全にこれ。

「優しくする」のって、本当に人のために行うのが結構難しくて、結構自己満足な面がある。しかもそれが、自分の中の固定概念から生まれた行動だと、せっかくの優しさも相手に届く頃には一方的なものになってしまうのだ。

一方で、「気働き」というのは「どうしたら相手が喜ぶか」を想像することで、これがかなり面倒臭い。ただ優しくするだけなら、それこそ「女性客だから少なめにしよう」で済む話だけど、これが気働きとなると、もっと注意深く相手を観察する必要が出てくるのだ。

どのくらいのペースで食べているのか。そのペースは落ちているか。料理を届けた時の表情は待ちくたびれたような顔? それとも笑顔? 自分の中にある「女性」のイメージだけでは掴めない輪郭が、相手を見つめることで見えてくる。そうすればきっと「普通サイズでいいな」ってことがどこかでわかるはずなのだ。

勿論凄く難しいことだけど。でも、難しいからやりたい。世界はどんどん便利になって、使える公式も増え続けている。だからどうしても、人間関係もそちらに引っ張られてしまうのだ。一見しただけでわかる相手の情報だけで、勝手な公式を用いてしまう。それって、とても寂しいことだと私は思う。誰だってオリジナルなのだ。その人にはその人だけの感性がある。

だから、私はもっと、相手をしっかり見つめたい。自分が満足するために、一方的にテンプレート化された優しさを押し付けるんじゃなくて、相手のために、相手のことを想像して、人間同士で関わり合いたい。いちいちそんなことしてたらキリがないかもしれないけれど、でも人生って結構暇だ。きっとこれから先、人間がやらなくても済むことが増えているからどんどん暇になる。それなら、もうちょっと、他人を想像してみたい。みんながあとちょっとずつそうすれば、世界はきっともう少し良いものになる。性別とか年齢とかで記号化されずに済む。

あなたが嬉しいことはなんですか?

私は、私のことを想像してもらえることが嬉しくて、だからとりあえず、あなたのことを想像してみようと思います。

ディスコを踊りながらストツーとかできるってこと?楽しいと楽しいが合わさった無法地帯。営業してほしい。

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