SNSが誕生した時期に思春期を迎え、SNSの隆盛とともに青春時代を過ごし、そして就職して大人になった、いわゆる「ゆとり世代」。彼らにとって、ネット上で誰かから常に見られている、常に評価されているということは「常識」である。それ故、この世代にとって、「承認欲求」というのは極めて厄介な大問題であるという。それは日本だけの現象ではない。海外でもやはり、フェイスブックやインスタグラムで飾った自分を表現することに明け暮れ、そのプレッシャーから病んでしまっている若者が増殖しているという。初の著書である『私の居場所が見つからない。』(ダイヤモンド社)で承認欲求との8年に及ぶ闘いを描いた川代紗生さんもその一人だ。「承認欲求」とは果たして何なのか? 現代社会に蠢く新たな病について考察する。
承認欲求を早くなくしたいと思っていた
承認欲求を早くなくしたくてなくしたくて、仕方がなかった。
「承認欲求がない人間の方が、人として素晴らしいと思ってもらえる」という、その考え方こそが、ひどく承認欲求に囚われた思考回路の結果だとは微塵も気がつかずに、私はどうすれば自分が人に認められたいと思わなくなるかということばかりを考えていた。
いろいろな本も読んだ。自己啓発書や、中国古典や諸子百家の本も読んだ。『嫌われる勇気』だってもちろん読んだ。はっとさせられた。どの本を読んでも、自分に足りないものがたくさん書いてあった。私に今必要なものはこれだ、と何度も思った。でも結局のところ、具体的にどうすれば承認欲求をなくせるかなんてわからなかった。
具体的な方法がわからない。解決策もない。こんなの治療法が確立されていない難病と同じだ、と思った。どんな薬を処方して、どんなリハビリをして、どんな生活をすれば治るのか、全くわからないのだ。誰も理解していないのだ。その専門の先生もいない。むしろ、専門家すらその病気にかかっている可能性だってある。この病気の問題は、かかっている本人でも気がつかない場合が多いということだった。現に私もそうだった。私だってはじめのうちは「まさか私が承認欲求なんかに悩まされる人間であるわけがない」と、微塵も疑っていなかったのだ。
誰も治せない。でも患者は大勢いる。その証拠に、「ありのままに生きましょう」とか「承認欲求はくだらない」という主旨の本はいくらでも見つかった。きっとみんながこの問題に悩まされているからこそこういう本がたくさん売れるんだろうと思った。でも、気がついた。こんなに多くの本が出ているのに、その作者の中の誰も、この感情をなくす方法は見つけられていないのだ。これだけの人がいるのに、未だに、誰も。
私も思いつく限りのことは試した。本当の自分を他人に吐露する。とにかく明るく考える。人の目なんか気にする必要はないと思い込む。でも無理だった。気にしてしまうものは気にしてしまうのだ。プライドを捨てる方法も腐るほど考えた。やっぱり無理だった。だってプライドも承認欲求も全部感情だ。それは「悲しいと思わないようにする」とか「喜ばない」とか「驚かされてもびっくりしない」とか、それくらいの難題と同じなのだ。
承認欲求やプライドは、私の心の中に固くこびりついていて、剥がそうとして剥がれるものではなかった。ページをめくり、「私だってありのままに生きられるもんなら生きたいよ」とため息をついてページを閉じ、それでも次の本こそは私を救ってくれるんじゃないかと期待して、本屋に足を運んだ。でもやっぱり方法は見つからなかった。
たとえば自分の感情を買い取ってくれる店がどこかにあればいいのに、と私は思った。どんなに安くてもいい。一円でもいい。いや、むしろタダでもいい。この面倒くさい感情を引き取ってくれる誰かが存在しないだろうか、と。
そう思って、毎日を生きた。
就活をして、大学を卒業した。承認欲求をなくしたい。ずっと変わらない、その課題だけは抱えたまま、「まだ子どもね」と言ってもらえる大学生から、「もう大人だなあ」と言われる社会人になった。なんだか信じられなかった。自分が想像する「大人」というのは、こんなに自分のことで悩んだり葛藤したりはしないもんだと思っていた。
何度か、「悩みとかあるの?」と聞かれたときに、その悩みをふと吐露したこともある。けれど「承認欲求なんか捨てなよ」「そんなもんはいらないよ」「無駄なものだ」と言う人がほとんどだった。
じゃあ、と私は思った。
じゃあ、あんたには承認欲求はないのかよ。あんたは、長年付き合ってきた感情を今すぐに捨てろと言われたら捨てられる人間なのかよ。
感情って、そんなに簡単に割り切れるもんなのかよ、と。
「人からどう思われるかとか、関係ないでしょ。そんなことより自分がどうしたいかじゃないの?」
承認欲求に振り回されている私を見て、そう言ってくる大人たちに何度も出会ってきた。それは知り合ったばかりのおじさんだったり、先輩だったり、自分より少し仕事ができる同期だったりした。
そう言う、あんたはどうなんだよ。
あんただって、自分がどう見られるか、気にしてるだろ。
今だって、ほら、そうやって私に偉そうに説教して、私がその意見に屈服して、「たしかに、そうですね。捨てられるように頑張ってみます!」って素直に言ってくれるように望んでいるのは、あんたが承認欲求に囚われているからじゃないのか。私に「相談に乗ってくれ」と頼まれたわけでもないのに、そうやって説教してくるのは、あんたが「こいつを救ってやった! 悩みを解決してやった!」っていう満足感を得たいからじゃないのか?
内心、悪態をつきながらも、私はもちろんそんな本音は隠して、「たしかに、そうかもしれないですね」と返事した。するとやっぱり彼らは、「うん、そうだよそうだよ」と嬉しそうにした。
誰にだってあるのにな、と私は思った。
誰にだってある。誰だって持っている。誰だって人の目を気にする。誰だって認められたいと思っている。
なのにみんな、それを認めたがらない。承認欲求がある事実を無視しようとする。自分には承認欲求がないと思い込み、そして、承認欲求があるやつはだめだと言う。人間のクズみたいに言う。
そういうことにひどく、違和感を覚えた。
誰にだってあるよ。「自分には承認欲求はない!」って、主張する人ほど、そういうのを意識しちゃってるんだよ。
私に説教してくる人みんなに、内心で噛み付いていた。
私だけがこれに振り回されているんじゃないかという不安にいつも苛まれていたから、他の人が人の目を気にしている部分を探した。必死になって探した。
どうすればいいんだろう、といつも不安だった。
どうしたらなくすことができるんだろう。
どうしたら私は、いつになったら私は、自分で自分を認められる、素晴らしい人間になれるんだろう。
でも、ずっとそんなことばかり考えていても、もちろん、私の承認欲求がなくなるわけじゃない。減らせるわけじゃない。むしろ、考えれば考えるほど、増えるような気がした。自分が今どんな感情でいるのか、今どういう欲求からこの行動をとっているのか、考えれば考えるほど、自分の承認欲求やマイナスの感情を見つけることになった。
ああ、もう、どういうことなの。
どうすればいいの。
いくら考えても考えても、具体的な方法は見つからなかった。きっと誰も見つけていないのだ。見つけられないのだ。
おそらく承認欲求をなくす方法を確立している人は、今のところどこにもいないのだ。これだけたくさんの人が生きている世界で、誰も見つけられていないのに、私が見つけられるわけがなかった。無謀なことだった。
それなら、もういいや、と私は思った。
もうなんか、いいや。
とりあえず、隅に置いておこう。
それは「逃げ」だとも言える方法だった。もう、考えない。目に触れないようにする。自分が人に認められたいと思う場面に出くわしても、無視する。いちいち「こんな自分っていやだな」とは考えない。
頭を、空っぽにする。
それが一番いい方法のような気がした。根本的な解決にはならないけれど、自分のことで悩む時間は減る。
ちょうどその方法を思いついた頃、仕事が忙しくなって、自分のことを考える時間が減ったから、都合がよかった。なんだか失恋した女みたいだな、と思った。忘れるために仕事に没頭しようとするなんて。
からの記事と詳細 ( 少し前までは、承認欲求なんかないほうがいいもんだと思い込んでいた - ダイヤモンド・オンライン )
https://ift.tt/Ley6cOM
No comments:
Post a Comment